ボクの名前はセナ
生まれて最初の思い出は、透明なケースに入ってたことかな。
まぶしくて落ち着かないペットショップの
ちいさな暑い部屋のなかでへばってたら、
おとうさんとおかあさんが出してくれたんだ。
紙の箱に入れられて揺られて辿り着いた場所は
涼しくて静かな部屋で
おとうさんとおかあさんは優しく撫でてくれた。
ボクはすぐにおとうさんとおかあさんが大好きになった。
ふたりともいいにおいがして柔らかくて、
大きくて強そうだったんだ。
ふたりといっしょにいればいつも安心していられた。
前におともだちのラムちゃんが、
生まれるってどうゆうことって訊いてきたけど
きっとガラスケースの中から出されるってことなんだろうな
ボクはおとうさんとおかあさんに出してもらったから
生まれたんだよね?
そうしておとうさんとおかあさんにミルクやごはんをもらって
いっぱい遊んでもらって、ボクは大きくなっていったんだよ。
お散歩も行ったし、車で旅行にも連れてってもらったし、
たまにはカフェにも行ってランチも食べさせてもらったんだ。
海にも行ったよ
海って知ってるかな?
すんごく大きくて、砂ばっかりあるんだけど向こうは大きな池で
舐めるとなんでもしょっぱいんだ。
ボクは初めての時はしゃぎすぎて、砂に顔を突っ込んだら
目の中が砂だらけになってムチャクチャ痛かったんだ。
おとうさんが慌てて水で洗ってくれて、それでも取れなかった砂は
おかあさんがなめて取ってくれたっけ。
二度目からはそんな失敗はしなかったよ。
ホントさぁ! 海は気取って歩くものなんだ...
おとうさんは『しごと』ってヤツと毎日戦っているらしくて、
いつも帰ってくると『しごと』のつぶをボクのうつわに入れてくれた。
ときどきは『しごと』があんまり強くって2~3日帰って来ない日も
あったんだ。
おかあさんは『しゅっちょう』って呼んでた。
出かける前に、おとうさんはいつもこう言うんだ。
「おとうさんがいない間はセナがおかあさんを守るんだよ いいね。」
ボクはいつも約束を忘れなかったよ。
どれほど眠くても耳はしっかり立てて危険がないか注意してた。
『しゅっちょう』に勝って戻ったおとうさんはいつもにも増して
ボクを可愛がってくれたよ。
「ちゃんとおかあさんを守ってくれたんだね ありがとな!」って
いっぱい褒めてくれた。
『しゅっちょう』は行くたびにちがうヤツが相手らしかったけど、
ボクはおとうさんがやっつけてきた『しゅっちょう』をムシャムシャ
食べてやったんだ。
二度とおとうさんを苦しめないようにね...
ところがある日おとうさんが『しゅっちょう』に行ったまま
何日も帰らなかった...
おかあさんは『心配ないからね』ってボクを撫でてくれたけど
こんなに強い『しゅっちょう』は初めてだったから、ボクは心配だった...
それからはおかあさんもボクに留守番させて、
おそくまで帰って来ない日が続いたんだ。
もちろんボクはワガママ言わなかったよ。
おかあさんだって淋しいんだってわかるもん。
でも、それから二度とおとうさんは帰って来なかった...
ボクにはちょっぴり分かってたんだ。
おとうさんは『しゅっちょう』に負けたんじゃないかってね。
多分長い留守番があったあの日におとうさんは『しゅっちょう』に
食べられちゃたんだよ...
おかあさんが今までで一番吠えてた日だ。
あんなおかあさんの遠吠えは生まれてはじめて聞いた。
おかあさんの目からは しょっぱい水がいっぱいあふれてきたよ。
ボクをぎゅっと抱きしめながら
今まで見た事もないくらい
かおをくしゃくしゃにしながら...
ボクはおかあさんの悲しみを消そうと思って
いっぱい いっぱい なめたんだ。
苦かったけど おいしくなかったけど
顔を伝ってくる水を いっしょうけんめいなめたんだ。
お父さんの分も おかあさんに笑顔でいてほしかったから
おかあさんの悲しみを消したかったから
つぎからつぎに目から出てくる水を
一滴残らずなめ尽くしたかったんだ。
ボクにできるのはそれくらいだったから...
何日なめ続けただろう...
おかあさんの目からはしょっぱい水は出てこなくなった。
そして、またボクを散歩に連れて行ってくれたり
カフェへランチしに連れて行ってくれたりするようになったんだ。
おとうさんが『しごと』をやっつけに行けなくなったので
代わりにおかあさんが『しごと』と戦いに行くことになった。
淋しかったけどボクはおうちで鳴かずに待ってたんだよ。
おかあさんが『しごと』を狩りに行かないと
ボクのご飯も捕まえて来れないんだからね...
ひとりぼっちの時間はふえたけど、
おかあさんは休みの日にはボクのためにいろんなトコに連れてってくれたよ。
一緒に行けるトコだったらどこへだって連れってってくれたんだ。
でもね、ボクはおかあさんと一緒にいられれば どこだって倖せだったのさ。
美味しいご飯よりも、お散歩よりも、おかあさんと1分でも
一緒にいられる時がボクにとっては何よりも嬉しいことだった。
でも、ある日ちょっとおかしなことが起きたんだ...
おかあさんがお散歩へ行こうって誘ってくれてるのに
ピョンって起きられないんだ...
あれ へんだな 脚が立たないや
一緒に出かけたいのにちからが入らない。
おかあさんを心配させないように がんばらなきゃ...
おひさまをあびに行かなくちゃ...
でも からだがぜんぜんいうことをきかなかった。
おかあさんはボクをだっこして、
いつも行ってるびょういんに連れてってくれたよ。
おじいさんの先生がチクッとかシューとか
いろいろやってくれたけど、
ボク、どうしても立ち上がることができなかった。
おかあさんの目から流れるしょっぱい水なめてあげなきゃいけないのに...
おとうさんと約束したのに...
おかあさんの顔もよく見えなくなってきちゃった。
声も聞こえないや...
ごめんね ボクもうおかあさんのこと守ってあげられないよ。
ボクの大事なおかあさん...
世界で一番大好きなおかあさん...
そしたら遠くから懐かしい声が聞こえてきたんだ
あれっ? おとうさんじゃないかな?
おとうさんの声だよ!
会いたかったお父さんが両手を広げてボクを呼んでるんだ!
ボクはおとうさんに抱きついてペロペロしてちぎれるほど尻尾を振った。
おとうさん! どこに行ってたの?
なんで帰って来なかったの?
おかあさんと心配してたんだよ。
気がつけばボクの言葉はおとうさんに全部通じてたんだ。
ここではおとうさんの言葉もよく分かる。
なんだかとっても頭が良くなった気がする。
さっきまで息をするのも苦しかったのに、
今は身体だってとっても軽いんだ。
でも、辺りを見回すとおかあさんがいないよ。
今までボクをずっと撫でててくれたはずなのに...
そしてボクはおとうさんに言ったんだ。
「おとうさん、いっしょにおかあさんのトコに帰ろう!
また一緒に3人で暮そうよ」
でも、おとうさんは淋しげに首を振ったんだ。
「セナ、おかあさんが来るまでふたりで待ってような...
この綿の国からは、もうおかあさんのいるところへは戻れないんだ。」
ボクは信じられなかった。
おかあさんを一人にしておけるわけがないじゃない!
あの淋しがりのおかあさんを一人ぼっちになんて・・・
ボクはおとうさんの手を振りほどいて綿のように柔らかな
地面に飛び降りた。
そしておかあさんの元へと走り出したんだ。
どんだけ走ってもくるしくはなかったけど
どんだけ走っても綿の道はおわらなかった。
ふと気付くと遠くでポワーン ポワーン と
大きなラッパのような音が聞こえた。
ボクは追いかけて来るおとうさんを待って、
その音の方へ近づいて行ったんだ。
そしたら、大きな機械でシャボン玉が次々に飛び出して
いるのがわかった...
「これから生まれる子たちがシャボン玉に入れられて
お母さんたちがいる街へ送られてるんだよ。
あの子たちだけが、ここから出て行けるんだ...」
おとうさんが教えてくれた。
ずっとその様子を見ていたボクには、いい考えが浮かんできた。
そして一番ボクに似ている子を見つけてお願いしたんだ。
「ねぇキミ、ボクのおかあさんのところへ行ってくれないかな?
そして、ボクの代わりにおかあさんのしょっぱい水を
なめてあげて欲しいんだ...」
その子は何も言わずに頷くとシャボン玉発生器に入って行った。
そして、シャボン玉の中で楽しそうにシッポを振りながら、
ふわふわとボクたちの上を舞い上がって、地上へと飛んでいった...
おとうさんがからかうように低い声でこう言った。
「セナ、あの子お前よりもお母さんに可愛がられるかもしれないよ」
でもボクはそんなことどうでもいいと思ったんだ。
いつまでも悲しんでいるおかあさんを見たくなんてないもの...
あの子がボクの代わりにおかあさんのしょっぱい水をなめてくれるなら、
おかあさんの顔に笑顔を呼び戻してくれるなら、
ボクのことなんか忘れたってかまわない...
そしてここで待ってるってきめたんだ!
いつかおかあさんが来た時に迷わないように...
まっすぐ走って行ってギュッってしてあげられるように...
そしたらきっとすぐに思い出してくれるよね?
だったらボクは待ってる
この綿の国の入口で
いつまでも
いつまでも
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ジャンル : 日記